カテゴリー神社祭祀

祈祷の効果

ご祈祷には効果があるのだろう。 それは神の存否を調べるための糸口の一つになる。確かに、決定的ではない。祈祷に効果はなければ、神が存在しないことが理由になり得るが、祈祷の方法は間違っている可能性もある。ある薬がある病気を治さないと、薬は一般的にダメであると結論しないと同じである。しかし、祈祷の形式を調整しても効果が出ない場合、神の存在は疑わしくなる。一方、祈祷に効果があっても、神が存在するとは限らない。その効果が発生する理由は神ではない可能性もあるからである。つまり、絶対的な関係はないが、祭祀の形についての占いと同時並行で行えば、証拠の一部を提供すると思われる。 では、どのように調べたら良かろうか。...

神と祭祀

祭祀について考えれば考えるほど、一つの問題が重要性を増すばかり。その問題は神の存在と性質である。 神社界が「祭りはただのイベントではない」とよく強調する。同じように、お札の尊厳を保つような行為も要求する。しかし、神は存在しないと、祭りはただのイベントである。伝統のあるイベントだが、本質には変わりはない。現状に合わせて調整したり工夫したりしても、それほど問題はないだろう。同じように、神が存在しなければ、お札はただの木簡に過ぎない。尊敬する必要は全くない。数年前に、ある神社でお守りを作成するワークショップに参加したが、その一部として神霊がまだ入っていないお札が配られた。神職が「まだ特別扱いしなくてもいいよ。神霊は入っていないから。」と言った。しかし、神霊が存在しないと、ずっとそのままである。...

神宮と伝統

では、神宮の古から連綿に続いてきた伝統が国民の特別崇拝の根拠になるのだろう。 伝統が存在することは事実である。さらに、日本の歴史と文化に深く根付いていることも明白である。神宮の伝統は素晴らしいし、大事にすべきである。 しかし、それだけで足りない。素晴らしい伝統を持つ神社は他にもある。遷宮の伝統といえば、春日大社も1200年以上の歴史を持つ遷宮の伝統を守っているし、春日大社で途絶えた期間もないそうだ。出雲大社も古から存在してきたし、独特の祭祀等を維持してきたし、天照大神との関係も深い。(出雲大社の神職の出雲国造家は天照大神の子孫であると神話が述べる。)大神神社は神宮より長い歴史を持つし(神話を信じれば)、重要な原始祭祀の様子を保つ。宗像大社も「海の正倉院」を持つし、歴史が始まる前からの伝統を持つ。諏訪大社も鹿島神宮も香取神宮も太古から伝統を守っている。神宮を特筆する根拠は明白ではない。...

神宮と天照大神

神宮は実に125の社からなる。その中で天照大神を奉祀するのは僅か数箇所に留まる。それでも、神宮が皇大神宮の御正殿のために存在すると言えるし、それは天照大神の和魂を奉祀する宮である。だから、神宮の崇拝が天照大神の崇拝と一致することは言える。 では、それが一般的に特別な崇拝を捧げる理由になるだろう。 天照大神は最高の神である主張は『古語拾遺』に見えるので、少なくとも9世紀初頭からある概念である。『古語拾遺』の主張で、天照大神が他の神を支配するかのように表現されているが、その後の表現が変わってきた。天照大神は一番貴い神であるが、支配する存在ではないと主張することは多くなってきた。...

神宮と皇室

神宮と皇室の間に深い関係があることは否めない。皇大神宮の御神体は八咫の鏡であるし、建立も天皇と関わった可能性は高いし、少なくとも天武天皇の時代から皇室と密接な関係を連綿と持ってきた。その為、皇室が神宮に対して格別な崇敬を表すのは当然であるし、適切であるのは自明である。 問題は、この歴史が他の人の特別な崇敬の理由になるか。それは明白ではない。...

神宮の地位

神社本庁が伊勢の神宮を「本宗」として奉斎するという。この「本宗」の意味は曖昧で、結局、神宮の特別な敬称であり、特定な意味はないと言えるかもしれない。ただ、神宮を尊重することは神道界で当然だが、他の神社を尊重することも当然だ。神宮の特別な地位は一体何だろう。 はっきりされたのは、天照大神が全ての神社で崇敬されている意味ではないことだ。そして、他の神様は天照大神の一部ではないし、天照大神への道標のような存在ではない。独立する神である。同じように、神宮が他の神社の祭祀の形を決めるわけではない。神宮の祭祀を模範とする場合はあるが、それは神社の自由である。神宮の権利等ではない。...

公と政治

公と政治の関係は重要である。ある意味で、政治は公の真髄である。つまり、公なことが全ての人に影響を与えるので、万民で諮るべきである。万民で諮ることこそは政治である。政治理論そのものである。 しかし、公の問題について特定の意見を持ち上げることは公ではない。それは私的な立場からの主張である。多様な主張を促すことは公であるとも言えるが、主張自体は公ではない。特に、個人や民間組織の主張は社会の中の一つの立場に過ぎないので、主張することは公な行為ではない。 実は、国家の主張さえ公になるかどうかは疑わしい。国家が国体や国柄について具体的に主張したり、促進したりすることは、国家の公に逆らう行為であると論じる哲学者は少なくない。勿論、反論する人も存在するので、結論はまだ決まっていないが、国家の主張はそれで必然的に公的になるとは限らないし、常識であるとも言えないし、当たり前でもない。...

公と管理権

神社を管理する必要がある。物理的な掃除を手配することから、財産の利用や処分までの世俗的な側面も、祭祀の形式等の宗教的な側面もそうである。現代の日本では、世俗的な側面では宗教法人法が大きく関わるが、現行の法制とあるべき姿が乖離することは少なくないので、宗教法人法を論理の基準とすべきではない。勿論、宗教法人である神社で、同法を実際の管理の基準とすべきではあるが。 問題は、この管理権は誰が持つのか。 純粋な解答は、御祭神が持つということだ。しかし、別途で述べたが、現在の神道でその答えを排除するのは常識になっている。神様の存在さえは疑わしいし、忖度さえできない。(忖度しようとする宮司は更迭される可能性もある。)...

公と神

神社は、神を拝む施設である。 神社は、公な施設である。 この間に、矛盾が発生するのではないかと思わないか。つまり、神は公的な存在ではない。神は官僚ではない。官僚は神ではないと言われたら、日本の社会体制への批判に聞こえるかもしれないが、逆であればごく当たり前の常識である。この矛盾が明治時代に誕生したのではないかと思う。 神社は国家の宗祀であると強調する明治政府は、神社の祭祀は宗教ではないとも強調した。宗教ではなければ、神を拝む行為でもないだろう。宗教ではない神の拝礼は有り得ない。宗教の定義は確かに曖昧ではあるが、神を拝む行為がその定義に入らなければ、問題は定義にある。神を拝む行為は宗教行為であるに違いない。そして、明治政府が神社の祭祀を統一化して、国家の道義を推薦するようにした。...

公と国家

この投稿で、ちょっと神社の祭祀から離れて、公と国家との関係について論じたいと思う。神社本庁等の発表を読めば、密接な関係があるかのように見える。そして、一般的な使い方にも同じような要素が見える。例えば、「公立学校」は行政によって維持される学校を指す。如何に開かれているとしても、民間の学校法人は公立ではない。しかし、ここでも、公立学校の大半は市町村立、または県立である。国立学校は存在するが、極めて少ないようだ。 神社の場合、明治時代から終戦までの「国家の宗祀」の概念が大きく働いているのではないかと思われる。神社の祭祀は国と天皇のためであり、個人のためではないからこそ公的な施設であるのような印象が強い。...

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