友人の結びの範囲は広いだろう。実は、分析して、複数の結びとして扱うべきなのではないかと思うほどである。それでも、特徴があると思うので、この投稿で論じたいと思う。
友人の結びはまず個人的である。ある特定の人との間の結びだ。その上、双方が結ばないといけない結びである。片思いの友人は有り得ない。(気持ちは有り得るが「友人」とは到底言えない。)
そして、結びの根拠を指摘できる結びである。例えば、「一緒に飲み会に行けばとても楽しい」とか「いつも助け合い人である」とか「一緒に重要な経験をした」とか「共通の趣味を一緒にするのは楽しい」など多種多様。
重要なのは、友人の結びが根拠を超えること。過去の経験が根拠になる場合は顕著であるが、ほかも同じである。友人の結びは根拠のためではない。相手のためである。根拠に傾けるかもしれないし、そして一緒に為すことは根拠と関わることは多いと思われるが、友人の産霊自体を重視して、発展して欲しい感情は重要である。根拠から遠く離れた場面で友人から助けが求められたら、当然助けるのは最初の反応である。(勿論、結局助けられない場合もあるが、友人の結びがあれば、助けたい気持ちは当然だ。)
家庭の結びとの違いは二つ。一つは、一緒に生活を原則としないことである。一緒にする場合もあろうが、家庭の結びに更新されるのではないかと私は思う。もう一つは、相手の生活の全てが結びの対象になるが、相手の誘い抜きに関与できない分野はあることである。友達に勝手に恋愛についての助言を提供することは相応しくないだろうが、家庭の結びであれば全く問題はない。一方、友人の関係であれば、相手に何についても「どうすればいいの?」と聞くことができるように感じる。
こう描写すれば、未完成な家庭結びなのではないかと思われるだろうが、そうではない。一緒に生活することは明らかに無理である人を友人とすることは多い。外国に住む人は明らかな例だろう。
よく考えれば、門出した子と親の間の関係は、このような友人の結びになるべきなのではないだろうか。親は、子の生活について勝手に関与すべきではないが、当然子が何についてでも助けを求めることができる。逆に、親は子の助けも求めることはできる。まだ未成年である子供には友人より親が必要だとよく言われるが、大人になった子には、その意味で親はもう不要で、無条件に味方になる友人が必要なのではないか。しかし、親子の結びを別で詳しく考えるべきであるので、ここで割愛する。
友人の結びの強度には広い範囲がある。家庭の結びは強くなくてはならないが、希薄な友人結びも認めても良かろう。例えば、長年会ったことはない友人はまだ友人だが、その結びが弱くなったに違いない。実は、現在の結びの根拠は「昔は、親友だった」ということになることも有り得るのではないか。裏切りなどはない限り、友人結びが自然に消えることはないのではないかと思う。
個人的な結びの原型であるとも言えるだろう。だから、多種多様になるし、結びとしてとても重要であると私は思う。