親子の結び

親子の結びは人生の中で最重要な結びであるのは否めない。この結びには問題があれば、人生全般に影響を及ぼしてしまう。その反面、うまく行けば、人生の基盤にも装飾にもなる。だから、重視するのは当然である。その上、産霊の一つの具現化は子供を産むことなので、親子の関係を作ることは直接に産霊と関わる。

では、この結びはどのような結びなのだろうか。まずは、子は文字通り子供である間と子供が大人になって門出を済ませた時と質が大きく違う。友人の結びで述べた通り、大人同士の親子結びは、友人結びの一種として捉えても差し支えないだろう。子供はまだ子供であれば、状況が違う。

まず、子供の立場から言えば、親に絶対的に頼れる結びである。そして、親を絶対的に信じられる結びである。愛されていることを疑わずに、文句を言ったり、叫んだり、自分の意見や立場を余計に訴えたりすることを、気軽にするのは適切である。

このような関係が構築されたら、子供は自然に親の言う事を聞く。それほど信頼感を持っていれば、親が何かを言ったら、子が信じるので、大きく逆らわないはずだ。ただ、完璧な信頼感があるからこそ、口論を冒すことも少なくない。そして、自分の自立を進めるために親が勧める行動以外に活動しても、親との関係には損傷はないと確信するので、自分の試行錯誤もするのは決まっている。

一方、親の立場から見たら、結びは根本的に違う。子供を愛することは当たり前だが、その意味は親の愛である。

親の愛は、子供の産霊の発展を全面的に援護することである。産霊は複層的なので、この育て方も同じである。新生児には体力も気力も意志も殆どないので、親の役割はそれを育むことである。子供に栄養や教育を与えるのは最低限だが、その上子供の個性や意志が強くなるように努めなければならない。子供の産霊が本当に発展するために、その産霊なりに発展しなければならない。親の考え方に縛られてはいけない。

しかし、生まれた途端の新生児に自分の産霊を駆使する能力はないのだ。親は、勝手に子に機会を与えて、子供の希望を実現できる形を探って、実現する。その上、子供の行動を止めたり、子供の意志を否定したりすると、必ず理由を説明する。「それは危ない」、「これを飲んだら、病気になるよ」、「お金がかかるが、それほどのお金はない」、「周りの人の迷惑になる」などの本当の相当な理由をあげるべきである。重要なのは、親の気持ちや希望が特別な理由にならない。親には我慢する義務がある。なぜなら、親が子を産む事を選んだが、子が産まれることを選んでいないからである。

産霊を育む重要な一部は、子供を間違えさせることである。つまり、子供の希望する行動が問題に終わることは親に明らかであるとしても、その問題は人生に大きな影響を与えないことであれば、させるべきである。それで、子供は自分の間違いから学ぶ。

もちろん、親としてこの結びを果たすのは容易ではない。自分より子供を考えるのは基本だが、家族にも配慮することを教えなければならない。でも、子供に義務があると思ってはいけない。子供の利益をいつも第一にすることで、自然に信頼を得るだろう。若いうちに得なくても、大人になった子供が幼い頃を省みれば目覚めるだろう。それもなくても、親の義務を果たしたと言える。この世に悲しい結末もある。

そして、子供が大人になると、親は控えるべきだ。大人になった子供は、援助を頼まない限り、自分で生きさせるべきである。援助の可能性を伝えても良いが、勝手に関与することは親子の結びを侵すことになる。

この結びは大変重要だと思うが、血縁とは関係はない。大人と子供の間の結びでなくてはいけないが、養子でも変わらない。里親でも、同じ結びを組む。(学校の先生は違います。数十人の平等に、そして限定された範囲で成長させるのは違う。)では、惟神の道を歩む人は、子供を授かるべきであるかというと、そうほど簡単ではない。産霊を発展させる方法は複数あるし、子供を得られない人もいる。この結びは明らかにいいことだが、それで一般的にどう行動に反映させるべきなのか。それは問題となるが、別な機会で論じたいのである。

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