三次元の倫理

正義に基づいて明白な行動の基準を得られなければ、どうすれば良いのだろう。行動をその瞬間の勘によって決めても、基準を設けたので、基準なしにはできない。そして、基準は何にしても、間違える恐れがある。それはどうせ正義には限られない問題である。その瞬間の勘でも、間違えることはある。

その解決策として、三つの基準を同時に利用する案を掲げる。

その基準は自由、慈愛、持続である。併せて、三次元の倫理と名付けよう。

自由は、すべての人が自分の行動や人生を自分で決める状況を指す。人の行動を拘束せず、制限せず、抑制せず振る舞って、幅広い選択肢から選べさせるように努める方針である。

慈愛は、人の幸福を願って、実現しようとする行動を指す。

持続は、永遠の将来までこのような行動や社会が続けるように今現在の行動を慎む方針だ。

「三次元」とうのは、主に駄洒落だ。三つあるし、それぞれ元になるし、その上全てが「じ」で始まる。三「じ」元である。それでももう少し意味がある。

この理念の一つに専念すれば、残りの二つが損なうこともある。自由を保護しすぎて、人が自分や周りの人に被害を与えて、資源などを費やして将来を破壊する。慈愛のあまりで、人に自分が悪いと思う選択肢を取らせず、今の幸福のために将来を犠牲とすることもある。そして、持続を確保するために、人の行動を拘束して、苦しませることは予想できる。

一方、お互いに補充することもある。人は自由を欲しがるので、慈愛で自由を保証する。そして、持続が不可能であれば、慈愛からも自由からも好ましくない状況になる。一方、自由で動ける人は、自分の幸福と将来を考えるのは当然だし、他人の立場よりよくわかることは多いので、自由を理念として他の二つの要素を確保できる。

三つとしたら、間違える恐れも和らぐ。この三つ全てについて間違っている可能性はそれぞれの間違いの確率より低い。数学的な意味もあるが、この三つは根本的に違う要素であるので、一つの場面で一つの要素について間違えても、残りの二つについて間違えると思う理由は特にない。例えば、間違った自由を保証すれば、問題が発生するが、慈愛と持続の観点からその自由に制限を与えたら、その被害も制限されるだろう。同じように、慈愛のあまりで人を間違った道に導こうとしても、自由を尊重するので拒否する可能性を残すし、持続の観点から長期的な制限はないように企てる。最後に間違った持続を確保しようとして、慈愛のため人の苦しみを抑制するし、自由のため人の行動の幅も確保する。

つまり、自分の誤りに気づいてから省みれば、被害を抑えるような行動もとったことは認められるので、誤り自体は著しい瑕疵から生じない限り、許される行動になるだろう。少なくとも、慈愛で大虐殺が必ず禁じられる。(本当に必要な場合?他の人に対する慈愛と自由と持続で、その人の悪影響を抑える。それでも問題が絶大であれば?人間は対応できない最悪な状態は想像できるし、発生する可能性も排除できない。しかし、人間は対応できないので、倫理で適切な行為を指摘しなくても良い。哲学者が厳しい状況を考えて理論を試すが、その状況が現実から乖離すれば、気にしなくても良い。)

だから、正義を完全に捨てて、三次元の倫理で人生を送るべきだと思う。正義を掲げることは、倫理違反の悪質な行為である。

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