カテゴリー政治理念

誤った正義

正義の指導が間違った方向に導く理由としてすぐに思い浮かぶのは、正義を見誤った状態だろう。つまり、正義であると思う理念は実は正義ではない状況だ。 些細な場合もある。例えば、ボランティア活動で社会に貢献することは正義に適うのを正しく判明したとしよう。そして、現実的な選択肢は災害の被災地での活動と近所の貧困の子供の支援活動だとしよう。いずれも貢献できるし、社会にいい影響を与えます。しかし、正義に適うために、子供支援をすべきだ。それでも、考えた上で、誤って被災地での活動を選ぶ。 確かに正義を見誤ったが、このような問題について心配すべきではない。人間はこのように間違えることもあるのは決まっている。このような誤りを悪徳の行為として批判する立場もあるが、正義の概念でこのような誤りが問題になったら、それは概念の問題であると私は思う。...

正義の魅力

正義を求める人は多い。正義を憧れる人も多い。正義の味方になりたい人も多いだろう。しかし、私は正義の魅力は幻であると思う。 そう思う理由を説明する前に、正義の魅力を具体的に描かなければならない。 この問題は難しくないと感じる人は少なくなかろう。言葉の漢字で明白であると思われるだろう。「正」と「義」だから、魅力的だろう、と。しかし、このような答えで物足りない。なぜ「正」と「義」に魅力があるのかという質問が残るし、まだ答えを待っているように感じる。「美」も同じだ。確かに美は魅力的ではなかったら、美ではないが、その魅力はどこにあるかという質問が残る。...

美しくない国

「美しい国」を目指すのは保守派だけではない。多様性が溢れる美しい国は革新派の目標としても掲げられることがある。しかし、私は賛成できない。美しくない国を目指すべきだ。 誤解されると思うので、前置きに断るが、わざと美しいものを壊したりする意味ではない。そして、「美しくない」は重要な基準にもならない。ただ、事実上美しくない国を目指すべきだ。 美しい存在は、美意識に基づいて形成されたり評価されたりするものだ。ゼロから創造する場合もあるし、自然に美しくなった部分を保存して、醜くなった部分を排除する場合もあるが、根幹は同じだ。自分の生活で美しい環境を確保するのはいいことだと思うが、国家の方針として根本的に間違っていると言わざるを得ない。...

機会を奪わず

失敗をやり直す機会を提供するのは重要だが、失敗する機会も重要だ。 つまり、流れがあるとしても、流れに戻る機会や方法は多いとしても、それで安心を確保したとは言えない。この投稿の塊で、主に失敗への対応を扱うが、その焦点に危険が伴う。それは、「安心」と決め付けた流れを押し付ける危険である。流れから自由に逸脱する機会も確保しなければならない。 これで一番重要なのは、時間の制限だろう。人間には限られた時間があるので、その時間を奪ったら、返すことはできない。もちろん、ある計画を実現しようとするために費用も必要であることは多いが、安心を確保する措置が財産を奪うことは少ないだろう。一方、現行の制度を見れば、時間を制限することはある。...

才能のない人

才能は全くない人は少ないだろう。それでも、皆無ではない。そして、持っている才能は全て弱い方である人も加えたら、到底無視できない割合に上るだろう。このような人も、社会に認めてもらって、自主的に安心した地位で意味ある人生を送る権利を持っている。 だけど、その権利を保障することは容易ではない。才能はない人は、自己管理力、忍耐力、集中力等の才能も持たない。理解力ももちろん劣る。そのような人は「継続は力なり」と言われても、継続できない。(継続力しか持たない人のために社会的な道を開くことは比較的に簡単である。)失敗したり誤ったりすることも多い。...

多様な才能

社会的な地位は、主に自分の才能の発揮で確保する。その才能で、周りの社会に貢献して、その貢献を認めてもらうことで社会的な地位を作り上げる。 人の才能は多様である。体が丈夫な人もいれば、理解が早い人もいるし、美貌で優れる人もいる。優秀な親を持つことも、才能の一種として認められるだろう。歴史のある家柄は長く才能として認められたし。この才能は同じ人に集中することはあまりない。頭が良くて、運動神経は優秀で美貌な摂関家の末裔の方は非常に少ない。(断じて言える。) だから、社会が認める才能の多様性を保障しなければならない。そうしないと、社会的な地位を確保できない人が多くなり、安心が広がらない。...

誤りからの復活

失敗と誤りは違う。簡単に言えば、「失敗」は価値のあることを志したが、叶わなかった場合を指すが、「誤り」は価値のないことを志した場合を指す。誤りの場合、最初から別な方針を選ぶべきだったが、失敗の場合はそうではない。漫画家を目指したが出版してもらえなかったことは失敗だが、泥棒を目指すのは誤りだ。泥棒としてお金を入手しても、誤りだ。 もちろん、犯罪ではなくても誤りである場合もある。賭博に没頭してしまうことも、ドラマや映画を見るばかりことも、SNSで必死に「いいね」を求めることも、誤りになるだろう。 もう一つの言い方は、失敗の結果は本人のせいではない。本人の責任であることはあるが、本人を責めることは原則としてない。頑張ったが、叶わなかった。一方、誤りは本人を批判する根拠になる。なぜそのようなことをしようとしたのか、と。...

流れの調整

世の中、人生の戦略を積極的に決めない人もいる。そのような人が社会の流れに乗って、流されるままにする。安心できる社会を構築するために、流れで満足できる人生に漂着するように工夫しなければならない。 人生の戦略を決めるのは容易ではない。いつでもできない人は多いし、そうできない若者は特に多いと思われる。だからこそ小中高の学校がある。子供がその流れに乗って卒業まで流される。それからも、流れで人生を講ずることができる制度は良いと私は思う。 実は、日本にはそのような制度があったのは大昔ではないそうだ。90年代まで高校を卒業したら、高校の先生が就職先の会社を探して、就職させることは多かったようだ。そして、会社に入ったら、定年まで働くと社会的な地位や収入を確保したという。独特な人生を思い描いて実現する必要はなかった。...

やり直す機会

安全網の基本は、やり直す機会であると私は思う。 人間は失敗する存在だ。失敗を完全に避けることはできないし、一人の人間の人生に複数の失敗があるのはほぼ確実である。だから、安心するために、「今回失敗しても、次回また頑張れる」という意識は必要だ。 そのため、社会はなるべくやり直す機会を提供すべきであると思っています。もちろん、人間は失敗するだけではなく、死ぬ存在でもあるので、永遠までやり直す機会を与えることはできない。そして、例えばオリンピック・パラリンピックに派遣される機会を与えられる回数は少ないし、してもらえる人も大変限られているので、結局できることには制限がある場合も少なくない。 それでも、できることは多い。...

本物の安心

社会で安心して暮らすというのは、どういうことだろう。 身の安全はもちろん重要である。いつでも襲われる恐れがある状態の中で安心できるはずはない。しかし、それだけでは十分ではない。社会的な地位が常時に不安定であれば、安心できるとは言えない。その反面、好まない社会的な地位を脱却する術はない日常でも、安心できるとは言い難い。 安心の社会というのは、自分の欲しい人生を目指せる社会で、失敗しても壊滅的な結末にならない社会であると私は思う。成功する人が失敗する人より幸せを入手することは多いと思われるが、失敗しても絶望にならないし、平凡な生活を送ることができる状況が保障されている社会なら、誰でも安心になるだろう。自分のことはもちろん、子供等の親戚についての心配もかなり軽減されるのではないか。...

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