個人と共同体との関係には二つの重要な誤りが蔓延ると思う。
一つ目は保守派の誤りだ。この誤りが先に発生するので、先に論じるべきだ。
他人に対して、特定の共同体の為に特定な態度や行動をとるべきだと強調する誤りだ。例えば、国の為に戦うべきだとか、国の為に子供を産むべきだなど。これは二重誤りだ。
まず、人が属する共同体は多数ある。家族から人類までの規模の幅があるし、家族や職場や趣味仲間や居住地や人種などなどの質の幅も持っている。その沢山の共同体の中で、どちらのために動くべきかと指定するのは、他人の役割ではない。
同じように、共同体を特定しても、その共同体に役に立つ行動は多種多様である。同じ共同体に属しても、相手はこの共同体のために働こうとしても、行動を指定することは不適切である。提案しても良いが、同じく共同体員の一人である相手は共同体の状態をちゃんと把握するだろうし、自分の状態を誰よりもよく把握する。だから、自分で自分の貢献を決めるべきだ。
だから、「国の為に産むべきだ」という人は、共同体の為に言っているというより、自分の思い描いた世界図に他人を嵌め込もうとしている。これは自己中心性の一種であると言えよう。他人を拘束したり、牛耳ったりする行動だ。
そのような行動に対して進歩派が反発するのは当然だ。だが、ここで二つ目の誤りが発生する。
進歩派は、共同体より個人を優先すべきだと強調する。個人の自由を謳える。
これも誤りです。個人の立場からも社会の立場からも、共同体を優先すべきだと断言できる。自分の為にしか動かなければ、人間は満足しないし、幸せにもならない。そして、社会がバラバラになってしまい、個人個人の幸せが更に遠ざかる。
確かに、個人の自由を厳守すべきだ。しかし、それは自分でどの共同体にどのように貢献するかと決める自由だ。その方法を見つける為に時間がかかることもあるので、まだ何もやっていないのは批判する理由にならない。基本的に貢献する行動は本人のためになる。社会の為にもなることは喜ばしい副作用であると他人が思うべきだ。本人は、共同体の為であると思わないと効果はないが、自分でその精神に基づいて考える。
だから、社会の構造を考えれば、共同体への貢献をやり易くすべきだが、その共同体の多様性とその貢献の千差万別を育む社会が良い。そうすれば、絆のある社会の中で多様な人間が一人分以上に幸せになるための基盤が築かれる。