身近な寛容

日本人の懐は深いと言われる。寛容して、違う人を認めると言う意味だ。「内と外」という概念もあるので、どれほど受け入れるかは疑わしい場合もあるが、事実もある。それでも、寛容というのは、単純な存在ではないのだ。

一つの要素は、他所者の慣習を許すことだ。例えば、宗教が違う人や家族構造が異なる民族を批判せずに認める。このような寛容は極めて重要である。なければ、残酷な戦争が発生して、憎みの連鎖が永遠まで続いてしまう。但し、ここで論じない。

もう一つの要素は、身近な人の行動に対する寛容である。

例えば、親父ギャグが大好きなおばさんと話す場合、そのギャグに少しでも笑って、何もうんざりなどを示さない行動はこのような寛容の一例である。又は、自分の大好きなアイドルグループの話をずっとする人に耳を傾けて、内容を把握しようとする行動も該当する。もちろん、これは親父ギャグは特に面白くない場合や自分はあのアイドルグループに興味を持たない場合である。

つまり、相手の行動や話から不快感を受ける場合でも、受け入れる行動はこの身近な寛容だ。

このような寛容はなくても、戦争に発展しないだろう。(自分は首相クラスではない限りかもしれないが。)しかし、欠けたら人間関係がギクシャクになることは少なくない。自分の気分にぴったり合う人は存在しないので、どの関係でも維持するためにこのような寛容はある程度必要だと思われる。そして、意識的に育めば、社会に良い影響を与える。

社会的にはこのような寛容は一般であれば、人は自分の他人と接する様式で生きても良い。これは当然社交障害を持つ人に有利である。この寛容が浸透すれば、社交障害は特に重くなければ、事実上障害ではなくなるだろう。つまり、人との付き合いに支障にならないので、障害とは言えない。

だが、障害には限らない。人の天性や育ちで、人との接し方が変わるので、寛容できなければ自分と違う環境の人と社交することは難しい。しかし、多様な人と接することは、自分にとっても社会にとっても利益になる。様々な刺激を受けるし、広い知識も得る。そして、社交方法より深い性格を把握するために時間は必要だが、寛容でなければその時間を我慢できない。だから、多様性のある社会を円滑に進めるために、このような寛容は必要不可欠である。これはなければ、一つの多様性に富む社会ではなくて、同じ国に拠点を置く複数の異なる社会になってしまう。世界を見渡せば、そうなっている国は今も見える。

そして、人間は大人になっても実は柔軟である。社交方法が違う人と接すれば、自分の接し方も自然に変わる。更に自分らしくなる。偶然に生まれ育った環境に支配されず、自分に適切な社会的な在り方を見つけることができる。一般的にそうなれば、社会が全体的に豊かになるし、その構成員の個人も幸せになる。

だから、この身近な寛容も育むべきだと思う。日本人の特徴をこの方向に更に向上させたら、より良い社会環境になると確信している。

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