倫理観の多様性

違う倫理観を許すべきだろうか。本格的な多様性を目指したら、そうしなければならない。それでも、容易にできることではないと思う。

ここで、自分の倫理観が正しいことを前提とする。この「自分」は読者を指す。もちろん、読者の倫理観の内容は筆者に分からないが、それは問題ではない。かなり抽象的な話になるからだ。

倫理観で、行為を三つの範疇に分ける。(これは簡潔な説明だが、役にたつと思う。)それは「義務」(しなければならない)「任意」(してもしなくてもいい)「禁止」(してはいけない)だ。

違う倫理観であれば、この分け方に違いがあるはずだ。六つの可能性がある。

まずは、任意を義務と勘違いする倫理を考えよう。これを許すべきだろう。悪いことを勧めていないし、その倫理観に沿った行為を許すので、倫理観自体も許すべきだと言わざるを得ない。

次は、義務を任意と勘違いする倫理観だ。この倫理観が支配権を握っても、正しい行動の妨げにならないし、最悪の場合この倫理観を信じる人が義務に怠る。倫理的に評価できないが、許すべきだろう。

次は、禁止を任意と勘違いする倫理観だ。これも、支配権を握っても、自分の行動の妨げにならない。問題は、この倫理観を擁立する人は邪悪な行為を行う可能性があることだ。しかし、そうする義務はない。この倫理観に反対しても、正面衝突する必要はない。これも許すべきだろう。とにかく、倫理観は正しくても、禁止を犯す人もいるし。

では、進もう。任意を禁止と勘違いする倫理観は如何だろう。支配権を握ったら、自分の行為に問題が生じるかもしれない。してもいい行為が禁じられるからだ。しかし、しなくてもいい行為ですので、自分の生活には倫理的な問題が発生しない。これは心理的に難しいと思うが、結局許すべきなのではないか。禁止は誤りであることを訴える事由があれば、間違いを是正しようとできる。一方、任意をしない人は倫理違反を行なっていないので、これは問題ない。

これから難しくなる。義務を禁止と勘違いすればどうだろう。支配権を握ったら、倫理的な妨げになる。

一方、禁止を義務と勘違いする場合は、邪悪を強いようとするので、大きな倫理的な問題になる。

この最後の二つは対になるので、自分は相手が義務を禁止と勘違いしていると思ったら、相手は自分が禁止を義務と勘違っていると思う。だから、この二つはセットだ。両方許すか、両方許さないか。

義務を禁止と勘違いする社会で生活すれば、歴史を見ればやるべきことは明らかだ。義務を果たして、社会の刑罰に向き合うべきだ。それは難しいかもしれないが、倫理的には苦しむべきだそうだ。

一方、権力を握る側であればどうだろう。正面衝突する倫理観を潰すべきか。そうすれば、どういう意味で多様性を大切にしているのだろう。

これで根本的な分岐点に立つ。自分の倫理観を優先するか、多様性を尊重するか。両立できない。

私は、多様性を尊重すべきだと思う。要するに、社会構成として、禁止を許すべきだと思う。だが、そう言っても、殺人を許すわけにはいかない。もう一回起点に立ち戻って、目指す状態をはっきりとしたら、許せない範囲が明らかになるだろう。

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