幸福の求め

哲学者の間によく知られている倫理観の基盤は、人間の尊厳以外、大多数の人の大いなる幸福を確保する理念である。この二つが根本的に違う。尊厳は、人間を一人ひとりで考えて、個人を重視する。幸福の追求は、多数の人間を合わせて合計の幸福を重視する。哲学者によって調整されるのは当然だが、大別したら上記の通りだ。

人間の尊厳を基盤とすれば、すぐに制御しない理念を見出せる。幸福追求はそれほど簡単ではないが、19世紀のミルからそう論じてきたので、ゼロから作り上げる必要はない。

基本になるのは、幸福の複雑性である。幸福になるのは、ただ食べて、寝て、楽しむことは不十分だ。達成感も自主感も必要である。これは、心理学の研究で検証されている。そして、幸福の取得を援助することはできるものの、強引に押し付けることはできない。

これだけで、制御できる範囲が大幅に狭まれる。幸福の詳細の選択を本人に任せなければならないので、生き方の自由を保障する必要がある。

そして、この基盤からも、概ね第三者を制御する行為を阻止する根拠を得る。その制御で制御された人は幸福を獲得できなくなるからだ。

しかし、まだ引っかかることがあるだろう。意識的に自分の幸福を求めない人はどうすべきか。その人の幸福を確保するために関与すべきなのではないだろうか。この倫理基盤は自分の幸福だけではなく、多くの人の幸福であるからだ。

だが、これでも強制的に関与すべきではないと思う。なぜかというと、幸福を目指せば確保できないことは多いからだ。つまり、自分の目的として「幸福」を立てれば、的外れになる。幸福になるために、別な目的を求めるべきだそうだ。例えば、家族を幸せにするとか美術作品を創造するとか社会の改善を実現するなどの目的に尽力したら、幸福を副作用として入手することは多いそうだ。だから、自分の幸福を目指していない人は、だからこそ幸福を得るかもしれない。

ただし、制御ではなければ、より良い行動へ促すことはもちろんしても良い。

一番難しい場合は下記の通りだ。ある人の言動が他人に制御を与えないが、不幸を齎す場合、どうすれば良いだろう。

まずは、不幸をたくさん与えたら、事実上の制御になる。気力がなくなって、ある行動を諦めなければならないことになる。被害を受けたら、行動が物理的に制限されることもある。このような行動が「他人を制御する行為」に当てはめるので、阻止すべきだ。

そして、反対方面から、幸福の複雑さも関わる。不幸された人はそれを幸福と思うこともある。

最後に、ある人が制御に及ばない不幸をわざと他人に与えたらどうだろう。あの人はなぜそうしているかと考えなければならない。自分の幸福のために必要であると思うか、自分の幸福を間接的に得るための行動である可能性は大いにある。他人を制御しない範囲であれば、その他の人に幸福を求める余裕を残している。それなのに本人の幸福追求を阻止しても良いだろうか。

これは、尊厳の論証ほどはっきりしていない。だが、幸福の複雑さと多様性や人間の知らないことの多さで、幸福のために人の行動を制御しても良いことは非常に少ない。念の為、制御に及ばない対策を取るべきだ。そうすれば、自分が誤っても、最悪な結果に至らない。

幸福を求めることは倫理の基盤としてよく挙げられているが、目的として唯一の選択肢ではない。知識を求めることやお金を求めることもあげられる場合もある。その場合、どうすべきだろう?

それは、次回。

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