公と政治の関係は重要である。ある意味で、政治は公の真髄である。つまり、公なことが全ての人に影響を与えるので、万民で諮るべきである。万民で諮ることこそは政治である。政治理論そのものである。 しかし、公の問題について特定の意見を持ち上げることは公ではない。それは私的な立場からの主張である。多様な主張を促すことは公であるとも言えるが、主張自体は公ではない。特に、個人や民間組織の主張は社会の中の一つの立場に過ぎないので、主張することは公な行為ではない。 実は、国家の主張さえ公になるかどうかは疑わしい。国家が国体や国柄について具体的に主張したり、促進したりすることは、国家の公に逆らう行為であると論じる哲学者は少なくない。勿論、反論する人も存在するので、結論はまだ決まっていないが、国家の主張はそれで必然的に公的になるとは限らないし、常識であるとも言えないし、当たり前でもない。...
公と管理権
神社を管理する必要がある。物理的な掃除を手配することから、財産の利用や処分までの世俗的な側面も、祭祀の形式等の宗教的な側面もそうである。現代の日本では、世俗的な側面では宗教法人法が大きく関わるが、現行の法制とあるべき姿が乖離することは少なくないので、宗教法人法を論理の基準とすべきではない。勿論、宗教法人である神社で、同法を実際の管理の基準とすべきではあるが。 問題は、この管理権は誰が持つのか。 純粋な解答は、御祭神が持つということだ。しかし、別途で述べたが、現在の神道でその答えを排除するのは常識になっている。神様の存在さえは疑わしいし、忖度さえできない。(忖度しようとする宮司は更迭される可能性もある。)...
公と神
神社は、神を拝む施設である。 神社は、公な施設である。 この間に、矛盾が発生するのではないかと思わないか。つまり、神は公的な存在ではない。神は官僚ではない。官僚は神ではないと言われたら、日本の社会体制への批判に聞こえるかもしれないが、逆であればごく当たり前の常識である。この矛盾が明治時代に誕生したのではないかと思う。 神社は国家の宗祀であると強調する明治政府は、神社の祭祀は宗教ではないとも強調した。宗教ではなければ、神を拝む行為でもないだろう。宗教ではない神の拝礼は有り得ない。宗教の定義は確かに曖昧ではあるが、神を拝む行為がその定義に入らなければ、問題は定義にある。神を拝む行為は宗教行為であるに違いない。そして、明治政府が神社の祭祀を統一化して、国家の道義を推薦するようにした。...
公と国家
この投稿で、ちょっと神社の祭祀から離れて、公と国家との関係について論じたいと思う。神社本庁等の発表を読めば、密接な関係があるかのように見える。そして、一般的な使い方にも同じような要素が見える。例えば、「公立学校」は行政によって維持される学校を指す。如何に開かれているとしても、民間の学校法人は公立ではない。しかし、ここでも、公立学校の大半は市町村立、または県立である。国立学校は存在するが、極めて少ないようだ。 神社の場合、明治時代から終戦までの「国家の宗祀」の概念が大きく働いているのではないかと思われる。神社の祭祀は国と天皇のためであり、個人のためではないからこそ公的な施設であるのような印象が強い。...
公の参拝方法
誰でも参拝できるのは神社の公の資格の基本条件であるともう述べた。そして、境内での行動を制限することもできる。勿論、許すこともできるし、限定的に許すこともできる。例えば、境内で飲食を禁じることも許されるし、カフェを設けて、そのカフェでの飲食を許しながら、他のところで禁じる方針も妥当だろう。このような規則は、神を拝む施設として保護するために定めるのは適切であると認めよう。 問題になるのは、拝み方自体である。もちろん、私的な施設であれば、拝み方を制限することは自由である。そして、法律上神社は私的な施設であるので、制限を課すことはできるのは明らかである。問題は、どのような制限で公的な資格を失うのか、という悩ましい問題である。...
公の基本
神社本庁が神社の公的な性質をよく強調する。しかし、具体的にはどういう意味だろう。公立である意味ではない。確かに、神社本庁が戦前の協調を継承しているし、戦前の神社は文字通り公的な施設だったが、現在では別な意味で語彙を使っているはずだ。ここで、神社本庁の役員の頭の中を読もうとしない。寧ろ、自分なりに神社の公を考えていく。 出発点として、「公」自体を考えなければならない。公が国家の管轄を指すという使い方もあるが、それだけではない。公と私の対から考えた方が良かろう。 私物は勝手に使っても良いものである。公物は違う。誰でも使っても良いが、その使い方には制限がある。公道であれば、誰でも通ることはできるが、道に祭りを開くことはできない。一方、私道であれば、通ってもいい人を制限することはできるし、所有者であれば祭りでも良いのだ。...
危機対策
永続を目指せば、危機が必ず発生する。想定外の危機は、待てば必然的である。千年を待つ場合もあれば、5000年を待つ場合もある。5000年はおよそ文明初めて現れた以来の機関であるので、振り返ればどれほど世界が変わるかが分かる。予想できない将来に備えるために危機対策は必要である。危機の内容は事前に把握できないが、影響になるべく対応できるように工夫できる。 周りの文明に頼らない方針はもはやこの危機対策の一部である。外からの物資が届かなくなっても、祭祀を続けることはできる。予想できるのは自然災害や疫病、大恐慌や戦乱であるが、予想外の危機でも、物流の問題に対応できる。 物体を全て定期的に作り直す習慣で、破壊的な被害に対応できる。遷座の伝統で、斎場の場所に問題が発生したら、移動して祭祀の伝統を維持できる。これも、問題の原因を問わない。...
祝・天皇陛下御即位
令和の御代がここで開けた。平和と繁栄な御代になるように祈ってやまない。
退位礼正殿の儀
先ほど、NHKの中継で退位礼正殿の儀を拝見させていただいた。厳かで簡素だったので、大変相応しいと思った。
特に感銘したのは最後でした。
天皇陛下がご退室なされる直前、一旦立ち止まられて、松の間に向かわれた。そして、参列者に対して一礼をなされた。大御心のご表現になられたと感じた。
その大御心を頂いて大道を歩むのは適切だと思わざるを得ない。
祭具
祭具は祭祀に使う道具で、供物を供えるためのお皿などが主役になる。これで、常若の観点から問題が発生する。一般のお皿は焼き物である。神宮では、特別な素焼きなお皿は作られているが、一回使用したら捨てるそうだ。神聖性に配慮することであるようだが、粘土は再生可能な資源ではない。消費は遅かったら、確かに長持ちするが、永続を考えれば、いつか無くなるのが決まっている。 その為、そのような祭具を避けた方が良いのである。そうすれば、また歴史的な前例がある。大嘗祭にまだ採用されているが、柏の葉で作られたお皿があった。そして、お水やお酒のために漆を利用する器は可能なのではないだろうか。竹を編んで箱を用意したり、木造の案を使ったりすれば、再生可能な材料になるので、持続可能な構成になる。祝詞を書く紙も再生可能な性質であるし、墨もその選択肢がある。...
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