浄:浄明正直

「浄」というのは、清浄で汚れのない状態を表す。惟神の道の理念として、穢れを避けることも表現できるだろうが、ここで「正」「直」「明」と関連する意味で捉えたいと思う。

「浄」の理念は、自分の人生を模範とすることである。

もう少し具体的に説明する。自分の人生の全てが相手に正しく把握されたら、その人がその人生を模範としても、自分で違和感を感じないことである。つまり、自分の人生の中で自分が批判的に思う要素はない状態を表す。これは明らかに達成できない理念であろうが、目的として適切であるのではないか。そして、「浄」の字との関係も明らかなのではないか。自分の人生や活動には自分にとって汚れとして認める点は一切ない状態を指しているので、清浄な人生を指すとも言える。

これで過去の誤りがあったとしても、達成できる状態である。何故なら、誤りを見つけて、認めて、そして是正することは他人の模範になり得る行動であるからだ。生まれてから一回たりとも間違ったことはない人間はないので、そのような(架空な)人間が模範にならないとも言える。乳飲児から完璧な存在は、実在する人間の規範に相応しくない。

もちろん、模範になり得ることは、誰も真似すべきであることと大きく違う。評価できる人生は千差万別であるので、一人の人生がその一つに過ぎない。寧ろ、目的は仮に或る人が自分を真似しようとしたとしても、止めさせたくならないことである。どの人も自分を真似したくても良い、との認識である。

この理念に近づいた程度もその反応で測れる。「駄目。駄目。絶対駄目」と感じたら、この理念から程遠い。一方、「これだけ避けてね」と言いたくなれば、かなり近いのではないか。

この「浄」は本人の判断に任されている。周りの人がどう思うかは関係しない。これで簡単だろうと思われるかもしれないが、決してそうではない。多くの人は、自分の理想像を立てて、自分を責める。そして、他の理念で、自分の理想像は甘過ぎたら、改善してもらえる。他人に気にしない問題があれば、結びで直されるし、努力を求めなければ、産霊で治されるだろう。

一方、自分の理想であるから、もしかして周りの人から隠すかもしれない。いつも出てくる例だが、ナチスドイツでユダヤ人を救う人になろうとしたら、その理想を一般人から隠すべきである。バレたら、自分も苦しませられるし、ユダヤ人を助けることもできなくなる。周りの社会が自分の理念と大きく異なる場合、自分の理想像を見せない方が良い場合も認めざるを得ないだろう。それでも、自分の中で、模範とされても抵抗感はないように生きるのは大事である。ナチスドイツの場合、活動できるために隠すが、人に傷つけないようにしない。

先にも述べたが、この理想は、「正」の理想と同じように、達成できないのは明白である。人間は誤る存在である。しかし、「不可避な誤りを避けられたら良い」という状態になれるのだろう。つまり、自分の行動の計画等には素直に納得できるし、誤りはそれほど多くないし、誤りはただその場での人間的な誤りに限る状態は、難しいとは言え、無理ではないのだろう。

これで「直」との関係も見える。「浄」に達成すれば、「直」が比較的に簡単になる。認めたくない要素がほぼなくなるからである。実は、この四つの要素の相互関係は深いので、それについても論じたいと思う。

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