浄明正直の関係

浄明正直を直から始まって関係を説明できる。

直で、自分の動機や目的を正しく把握して、相手に知らせる。自分以外のことについて気にしないが、それで問題が発生することは多い。だから、正に進んで、万物の事実を知ろうとする。しかし、知識が広がると、自分の動機などを偽らないことで物足りなくなる。自分の動機と目的を正しく伝えても、相手は事実の一部を誤解すれば、相手が不適切に動く可能性がある。そのため、直と正の組み合わせで、自然に明に進む。そして、直で自分の動機などを把握すれば、それが自分の理想から外れたら、立て直したくなるのは当然である。だから、自分の理想像に近づくように努力する。そして、その理想像は正に基づいて組み立てられたら、自分だけのものにならない。同じような状態に置かれている人なら、誰にでも相応しくなる理想像であるはずだ。明から考えれば、その理想像は見られて、真似されたら良いのではないかとも思うので、浄を理念とする。

別な立場から見えたら、基盤は正である。全てが事実を把握することから始まる。自分の行動の事実も、周りの世界の事実も把握できないと、他の理念に至ることはできない。だからこそ、正は理念として目的を掲げない。全ての目的の基盤になるので、基盤の中で目的について何も言わない。

次は直である。自分の動機を把握しなければ、偽ることになるので、直が正の基盤の上に建てられる。直で、自分の行動の要因を素直に認めるので、より広く解釈すれば、自分の事実だけではなく、全ての事実を素直に認めることを表現する。直はないと、世界は自分の要望の通りに展開しているかのように見ようとする。好ましくない事実があれば、それは嘘であることを裏付ける証拠を探し続けることもあるし、得た証拠を不当に疑うこともある。自分の行動と同じように、事実を素直に認める。

そして、明が来る。自分の中で事実を知ったり認めたりするので、次は周りの人に見せることである。周りの人の正への達成を支えるか、少なくとも妨げない。直と密接な関係がある。

この三段階が完成できたら、浄が築き上げられる。自分の行動が自分の理想から大きく逸脱すれば、その行動を見る人は、自分の理想を誤って解釈するので、そのような行動は明に背く。しかし、明に背かないことで浄が終わらない。それが見えたら、自分の認められる理想になることも重要である。

明を最初に理念としてあげたら、正と直の必要性をすぐに感じるだろう。自分で事実を把握しないと発信できないし、自分の動機を認めないとその発信が歪む。

しかし、この四つの理念にはもう一つの共通点がある。それは、極めて悪質な人間も達成できることである。他人の人生を破壊して自分の楽しみを得ようとする人は、その自分の動機や目的を認めることはできる。そして、上手く苦しませるためにたくさんの情報を集めることも可能である。そして、力があれば、周りの人を騙す必要はない。寧ろ、無力感を与えるために正直に言うこともできる。最後に、自分でこれを理想像として抱えれば、浄もある。

つまり、この理念だけで、惟神の道が成り立たない。産霊や結びの理念の方が重要で基本的である。産霊と結びと浄明正直を組み合わせたら、立派な人間になるのではないかと私は思う。

3 コメント

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  • 最初は腕立て伏せ三十回が限度だったけど、今は八十回出来るようになった。
    本年は御息女の正念場、抱負は決まりましたか?

    • 80回は凄いですね。ここの新年抱負は、引き続きのもの以外、まだ決まっていません。決めなければなりませんね。

      • 愚公山を移す、少しずつ馴致してきた結果なのだけれどど、一般成人男性なら百回三セット出来なければ駄目かな。
        自衛官は腕立て伏せ五百回は当然の如くしますし。

        本年新年抱負は前年の引き継ぎを除き、まだ未定ですか。

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