研究の失敗

研究には大きな成果が出ない場合もある。例えば、病気の治療法を研究して、ただ複数の方法には効果がないことを確認することもある。核融合発電も顕著な例だろう。60年以上の研究で、まだ成功していない。(この60年間、ずっと「40年後使える」と言われてきた。)

このような失敗は、研究と離れない現象だ。研究は、未知の分野で新しい知識と理解を探す活動だから、場合によって見つけないことがあるのは当然だ。探さないと見つけないのは事実だが、探したからといって必ずしも見つけるとは限らない。

国家が支援を出したら、これが問題になる。国家が出費したのに成果はないのは、無駄遣いなのではないかと思われるだろう。しかし、研究の場合、これは大きな間違いだ。結果を強く求めれば、寧ろ研究の不正や歪曲の温床になる。

上記の通り、研究で興味深い結果を探しても、見つけないこともある。しかし、いい結果はなければ処分されることが分かったら、一生懸命結果を出そうとするだろう。場合によって、結果を偽造して、不正を起こすことがある。(上手くすれば、発覚されるのは数年後で、不正ではなく原因不明の実験の問題に見えるので、懲戒処分にならないが、少なくとも他の研究者の時間の無駄遣いを引き起こす。)不正に至らなくても、自分の結果からどうしても興味深い結論を引き出そうとすれば、解釈しすぎて、ただの偶然に基づいた結論を述べることは少なくない。結果を忠実に解釈することを確保するために、「この結果に基づいて役に立つ結論は出ない」と認める研究者に罰を与えてはいけない。

つまり、研究の失敗を認めなければならない。研究の失敗は避けられないからである。

もちろん、単純な不正も考えられる。或る人が助成金を受けて、自分の遊びに横領して、結果を偽装することで隠蔽する行為はあり得る。このような行為を防ぐために、原則として全ての結果を公表することを義務化したら効果があると思う。全てのデータを偽造することは極めて難しいし、偽造が発覚されないように偽造することはさらに困難だ。一方、誠心誠意で研究を行っていれば、データを公表することは簡単だ。ウェブサイトにアップするだけだ。詳細には難しい点があるのは言うまでもないが、このような透明性で研究が本当に行なってきたかどうかは確認できる。

研究過程の確認の上、助成金の出した企画通りにしたことも確認できたら、結果は如何にがっかりさせるほどのつまらない結果になっても、研究者を認めるべきだ。さらに助成金を提供するのも相応しい。研究のアプローチを変えて、同じ問題を別な方角から追求すれば、今回は大きな成果を納める可能性が十分ある。

つまり、企画を選別する段階で、役に立つ成果が出そうな企画を選ぶべきだが、完成した企画を評価する段階で、結果を無視して、過程が正しく実施されたかどうかを基準とすべきだ。最初から、企画の一部が失敗に終わることに覚悟して研究に財産を注入することだ。

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