家庭の結び

一番大事な結びと言えば、家庭の結びなのではないかと思う。他の結びを同等やちょっと上だと論じられたら、すぐに退けられないかもしれないが、上の方の結びの一つであるのは疑えない。その上、社会の構造を考えれば、個人が基礎で、そして家庭、そして他の組織があるというべきなのではないだろうか。この結びをはっきりしないと、多くの問題が発生する。

家庭祭祀を論じた投稿で家庭を暫定的に定義したが、ここでまた定義を提唱する。家庭というのは、一緒に生活をする人で、一人一人で家庭の責任を全て力が許す限り担う。

ここで「家族」より「家庭」を使用する理由がある。「庭」は場所を表すが「族」は血縁を表すからである。(民族や氏族を考えよう。暴走族や農業族は比喩的な使い方だと思う。)家庭では、一緒に生活をすることはとても重要なのである。それは、家庭の結びの質から発する条件だ。

家庭の結びは、全面的な結びである。つまり、相手の人生の全てを応援したり、支援したり、良くしたりする結びである。相手の産霊を考えれば、自由にさせる範囲は広いが、対象外の分野は存在しない。もう少し詳しく、具体的に考えよう。

家庭の結びがあれば、相手の就寝時刻を気にするのは相応しい。いつも遅すぎたら、健康に良くないので、産霊の発展の妨げになる。食生活も同じである。食べ過ぎや偏食などで健康状態が低下する虞がある。運動も同じだ。そして、仕事ぶりにも気をつけなければならない。実力が発揮できるように環境を整えて、応援するのは必要であるし、休憩や趣味のための時間も取らせるべきである。その仕事の内容は家事でも、同じである。教養などの人間的な発展も実現できるように。

この広い範囲を満遍なく見渡して、理解して、適切な援助を提供するために、一緒に生活をする必要がある。そうしないと、充分な情報はなかなか得られない。そして、支援が必要となるときに、いないので、自分の義務を果たすこともできない。しかし、血縁は不要だし、恋愛の関係も不要だし、同性でも異性でも充分できるのではないか。必要なのは、お互いの深い信頼感である。つまり、単身赴任するお父さんのある家族には家庭の結びが結べないが、四人の男子学生がシェアハウスでこの関係を結ぶことは可能である。その学生の彼女たちとの結びは違うけれども。

このような結びが持てる人数には制限がある。相手の人生の全てを把握して、適切な関与を考えたり、直感でやったりすることは、10数人に対してできないだろう。調べない限り信憑性のある数字は出せないが、上限は六人程度なのではないかと思う。

家庭の結びはお互いのものではないとダメだろう。これで、子供と高齢者の位置付けが難しくなるような気がする。もちろん、高校生ぐらいの子供はこの絆を結ぶことはできるし、後期高齢者でも結ぶことができる人は過半数を占めるのではないか。しかし、幼い子供と認知症などが患う高齢者は、支援を受けることはできるが、提供することはできない。将来に家庭の結びになる見込みがあることでも過去に家庭の結びがあったことでも、現時点での家庭の結びにはならない。これはさらに考えていく必要がある側面であると思わざるを得ない。

因みに、家庭の結びでお互いに作る存在は、生活そのものなのではないか。生活の中で、人間が成長して変わっていくが、変わったからと言って家庭の結びが解くとは限らない。寧ろ、一緒に変わっていくにつれ、結びが強くなるのではないか。

数年前に倫理学の論文誌で論文を読んだが、その論文の中でこのような関係の中で一緒に将来の生活を作り上げるが、どうなるかは予想できないと述べた。複数の人が関わるからこそ発展の過程は予想できないが、一緒に作り上げることなので、その結果をお互いに評価するに決まっているという。私も、このようなことになるのではないかと思う。しかし、具体的に説明することはまだ難しい。

家庭の結びは一番重要であると言えるが、全面的な関わり合いなので、一番複雑でもあるだろう。他の結びを考察して、家庭の結びに戻ったら、さらに明白に説明できるようになるだろう。

2 コメント

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  • 家庭とは社会の最小単位であり、その紐帯を為すものは一徳一心、互恵関係である。
    では、その家庭で指導的役割を果たす存在が必要である。それは家父長制を採るのならば父であろう。
    だから父たる者は権威が求められ、母は母性、つまり抱擁力が求められる。
    此処で云う権威とは、実社会で求められる規範であり、長幼の序や遵法意識など、つまり縦社会が何たるかを教授するものである。また、母性とは横社会、相手に対する配慮や親しき中にも礼儀ありなど横での関係を体得させるものであって、父母は其々家庭内での役割が異なるのである。これが自然の摂理であり、「平等」である。お墓参りなどの先祖拝戴は過去からの連続性、回顧し自身を奮励させる慣習であり、神棚は詰まるところ敬神、普遍的権威で家庭内の秩序、つまり結びを保つ中核であると思う。

    数学検定はやってみないの?

    • いつもコメントをありがとうございます。

      それは家庭の形の一つだと思います。そして、良い形の一つだとも言えるでしょう。役割分担で親がそれぞれ必要な要素を提供することは自然ですし、平等に違反しない場合も多いです。ただし、父親と母親の役割が逆になったり、分担の仕方が違ったりする家庭も良いと私は思います。人の性格はそれぞれですので、性別によって役割を決めてしまったら、果たしてもらえない場合もあります。

      数学検定ですが、提案しましたが断固拒否でした。

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