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平等性

集団社会の大きな利点は平等性である。名誉がある集団に属する人に名誉があるし、成功する集団に入った人にお金がある。そして、その名誉や収入が個人の能力に基づかない。そのため、自然に能力は高くない人も、社会に尊敬を得る地位に就くことができる。その上、本当に社会に役に立つ仕事をしていることも感じられる。集団の一員として動いているので、その集団の社会貢献に貢献している。 個人主義と能力主義の社会で大きな問題の一つは能力を持たない人が捨てられることだ。障害になる問題ではなく、平均をちょっと下回る人もそうだ。それは、総人口の半数近いので、社会問題として扱うべきだ。...

休暇の機会

人間の人生の中で、仕事を休むべき事態が自然に生じる。すぐに思い浮かぶのは病気だろうが、育児や介護もそうだ。家族の養育を仕事より優先する場合はある。しかし、休めば仕事を失う状態であれば、安心して休めないので休まずに両立しようとして、結局双方で失敗することは少なくないだろう。または、日本の伝統的な形で、男性が子供の養育を完全に手放して、女性は職場から離れることになってしまう。これはいずれも良くない結末だ。...

連帯感

集団社会を築こうとすれば、集団が重要になるのは当然だ。それが個人にとっていいことになる条件の一つは、集団の中の連帯感なのではないか。仲間と一緒に活動していると感じたら、心強いし、生き甲斐も感じるだろう。先に描写した集団の構造で、連帯感が発生するとも思える。 なぜかというと、同僚との競争は基本的にないからだ。職場恋愛紛争があるかもしれないが、仕事上、別な集団と競争するとしても、同僚と競争しない。待遇や収入は成績に基づかないからである。待遇等は単純に入団から経った時間に基づいて計算されるので、同僚との関係を変えることはできない。自分がさらに早く入団したように状況を変更することは絶対に無理だから、上下関係や収入の多少の関係は変わるはずはない。...

安定感

集団社会の最初の利点は、安定感を与えることなのではないかと私は思う。つまり、そのような集団に一旦入ったら、もう競争する必要がなくなる。将来に心配する必要もない。役割を著しく怠らない限り、定年退職まで働いて、ある程度余裕のある老後を過ごすことができる。 もちろん、会社の倒産や国家崩壊の可能性があるし、日本で大地震の恐れはいつもあるが、そのような社会規模な災害が発生しない限り、20歳で70歳までの人生が描ける。それ自体は嫌な人もいるが、そのような人が集団に入らなくても良い。 この安定感には二つの重要な要素があるだろう。 一つは、生活について心配しなくても良いことだ。その心配はなければ、自分の活動に集中して、ベストを尽くすこともある。それとも、仕事に必要な努力を注ぎながら、趣味等を楽しむことも考えられる。...

集団社会の構造

日本のような集団社会にはどのような利点、どのような魅力があるのか。西洋から日本を見たら、「アリのように個性を否定して集団のために自分を犠牲としながら働く」の罵ることがあった。個人を重視する文化から理解できないことを見て、強く批判してきた。私も、イギリスでの生まれ育ちなので、同じような反応を感じる。しかし、それはただの偏見である可能性もある。長年続いてきた社会構成には利点があるに違いない。欠点ばかりだったら、高度経済成長をもたらしたことはないし、すぐに崩壊するはずだろう。もちろん、欠点もあるのも当然だが、西洋からあまり見られない利点に焦点を当てたい。そうするため、まず考えている構造を具体的に描写しなければならない。実際の日本社会には多種多様な集団があったし現在もあるので、全てを簡単に考えることはできない。...

裸の脆弱

混浴の積極的な利益は、裸の脆弱と関連する。 裸で見られたら、恥ずかしくて、精神的な被害を受けることは多い。肉体的な被害とつながる場合もある。例えば、入浴中の地震から逃げ遅れて、下敷きになることもあるだろう。命を助けるために恥ずかしさに我慢するだろうと思われるかもしれないが、人間がその様に考えないと言われる。まず恥ずかしさに対応してから、身を守る。 しかし、裸で見られることで必然的に被害を受ける必要はない。物理的に問題はないのは明白である。見られるために、光が肌から反射する必要があるが、一人で入浴するときにも光が肌から反射する。精神的な被害も必然的ではない。生活環境の文化によって決まっている。...

混浴と日本文化

混浴の導入を裏付ける事実の一つは日本の歴史である。混浴は日本の文化である。それに、混浴を止めたのは、西洋人の批判に屈服したからだ。 幕末期の日本を訪れた西洋人の紀行文を読めば、混浴や公然の裸の習慣を驚いて指摘することは多い。キリスト教の宣教師が猛威的な批判を浴びさせることは多いが、より客観的な来日者が文化の違いを認めて、自分の驚きも認めてから、特に批判できるとは思わないとも述べる。 しかし、明治政府は主に西洋風を導入することに決定した。服装や髪型から帝国主義な方策まで幅広い分野で日本の文化を塗り替えようとした。(ところで、日本の所謂「保守派」がこの時期を理想として掲げることは不思議で堪らない。)...

混浴禁止は人権侵害

今の日本の法令で、混浴の施設は原則として禁じられている。歴史的に混浴であった温泉は、県によってその状況を保つことが許されるが、一旦男女別になったら、混浴に復帰することは許されない。 これは人権侵害であるとここで論じる。人権侵害だから、当然改正すべきだ。 論議の筋を簡単に記すと、下記の通りだ。 所謂トランズジェンダーの人は存在する。つまり、体の性器の形式と人の性別との関係が平凡な関係と違う人である。女性で男根を持つ人や男性で乳房を持つ人は分かりやすい例だが、多種多様だ。トランズジェンダーの人は、温泉や銭湯の入浴をトランズジェンダーであることを理由に禁じることは人権侵害である。特に、入浴は文化の重要な一部を占める日本では、それは顕著である。しかし、混浴を認めなければ、事実上のトランズジェンダー禁止になる。だから、混浴を認めなければならない。...

子供の同意

子供の意思を軽視する傾向があると思うが、実は子供には立場があり、行動に同意する能力もある。保護者の経験を持つ人が顧みれば、それは明白である。子供が成長すればするほど、その意思の尊厳が増す。しかし、子供には賢明に判断できない場合も多い。子供を自分から守るのは保護者と社会の役割の一つである。 では、具体的にどうすれば良いだろう。案として、保護者の行動を四つの範疇に分けたら良いと思う。 まずは、行政が推薦する行動だ。このような行動は、保護者教育の一部として教えるし、行政の施設で支援する。子供が同意しなくても、強制的に参加させることは多い。そして、強制的に参加させることは原則として問題ではない立場を取る。推薦している理由は、子供の将来のためにいい影響を与えるためだから、子供がやらされても長期的な問題になるはずはない。(特別な事情で例外があるはずだが、少数だろう。)...

関与の形

保護者と子供の関係に関与すれば、どのように関与すれば良いのだろうか。 理想は保護者と一緒に努めて、子育てを改善して問題を解決することだろう。保護者と子供の関係を切断せずに、子供に長期的な問題が発生しないように工夫する。そして、保護者と子供を離れさせる必要があれば、できるだけ一時的にして、関係を保ちながら保護者に教育を提供し、子供に養育を与える。保護者には子育ての能力は全く無ければ、子供の養育を行政が担うが、元保護者との関係を保つように工夫した方が良いだろう。最悪の場合、関係を完全に切って、元保護者に対して刑事責任を問うことも考えられるが、そのような態度は極端なケースに限るべきだろう。子供を保護するのは重要だが、保護者との関係も子供にとって重要であるのではないか。...

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